AUBERCY パリの名店をひとり引き継いで。

パリにて靴づくりを修めた日本人職人は、現在名店の看板を背負う存在となった。
ひとり奮闘する靴づくりに込められたものとは。


探究心が導いた
ビスポークの靴づくり。

 パリ、2区のヴィヴィエンヌ通り。旧証券取引所に隣接するこの界隈は、少し前まではスーツ姿の男性が目立っていた。1935年、この通りにオーベルシーは開業し、現在も同地で靴店を営んでいる。

 店舗の地下には工房が設えられ、そこで同店のビスポーク(グラン・ムジュール)の靴がつくられている。この工房をひとり切り盛りしているのが塩田康博氏だ。塩田氏が同店のビスポークを担当するようになって、今年の12月で丸5年。つい先日工房が拡張されたことからも、彼に対する店の高い信頼度が窺える。

 塩田氏の靴づくりの歩みは、大学時代にまで遡る。当時彼は洋服に興味を持ち、手持ちの服を分解して組み直したりしていた。ある時靴を分解してみたが、服のように各パーツが2次元(平面)になるわけではなく、再度組み立てることも難しかった。

「当時は木型を使っていることすら知りませんから。また、足にテープを巻いてその上に靴のラインを描き、それを切り開いてパターンにして、服の余り布で靴をつくってみたこともありました。それでも、なんで靴があんなに堅くなるのか、わからなかった」(塩田氏)

エッセヤージュの靴。顧客に履いてもらい、さらにつま先部を切って内部の足の状態もチェックする。足にあわせた木型づくりに必須の作業と塩田氏。

 靴をつくる人たちは、実際どのようにしているのか。そんな探究心から靴づくりに興味を抱いた。日本を出て海外で生活したいという気持ちもあり、大学卒業後奨学金を得て英国の靴学校レスターカレッジに入学した。同校卒業後はパリへ。当時はレディスシューズのデザインをメインにしていて、モード志向だったこともあり、パリが好きだったと塩田氏。しばらくは合同展示会に出展したり、他のデザイナーの手伝いなどをしながら過ごしていたが、次第に生活に不安を抱くようになった。そんな折、ある展示会で靴店「マサロ」のレイモン・マサロ氏と出会う。その場でポートフォリオを見せ、後日連絡をもらってマサロ氏を手伝うようになった。さらに2ヶ月後、マサロが塩田氏を雇用することになり、彼は本格的なビスポーク・シューメイキングの世界に入ることになった。2004年のことだった。

「マサロではメンズとレディス双方の、フィッテング用の靴を主につくっていました。その中にはマサロ氏が得意としていたオーソペディックの靴もありました」

 マサロ氏の目の前で働き、彼のアシスタントのようなことをしていたという塩田氏。その後、マサロの経営が変わってレイモン・マサロ氏が工房を去るのにあわせて、塩田氏もマサロを出た。ほどなくして旧知の仲だったピエール・コルテ氏の靴店「コルテ」を手伝うようになり、2008年夏に正式にコルテのメンバーとなった。同店ではパターンメイキングの全てを手がけ、さらにラストづくりやボトムメイキングにも関わるようになった。

「ただ、コルテも新しい体制になり、少し雰囲気が変わってしまいました。その頃親しくしていた靴関係者から、『同じところにずっといるのではなく、4年で居場所を変えていくべき』というアドバイスをもらったこともあって、次の展開を模索し始めました」

 同じ時期、オーベルシーでは、しばらく手がけていなかったグラン・ムジュール(ビスポーク)を復活させようしていた。そして2013年の冬、塩田氏はグラン・ムジュールの責任者としてオーベルシーに加わったのだった。

上_エッセヤージュの靴用の革をスカイヴィングしているところ。 右下_こうしたデッサンを描くことも。リピーターの顧客の「カジュアルな靴が欲しい」というオーダーに対して、アール・ヌーボーっぽいラインのモンキーブーツを提案した。 左下_ブーツ用の木型は、シャフト部のフィッティングも重要。着脱も考えてぴったりしすぎない。
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