革から靴へ、そして2人の師匠との出会い
「靴づくりの前はダンサーをやっていました」と土屋氏。高校時代に渋谷でストリートダンスと出合ってプロになった。世代的にはTRFのひとつ下で、EXILEメンバーとも同じイベントに出た経験を持つ。「でも、23歳の時に身体を痛めてしまい、将来性も考えてダンスから離れました。その後旅先のタイで革のサンダルを路上で売っている人を見たりして、手と革でつくられたものに魅力を感じるようになりました」バックパッカーをしながら、革の財布でもつくって暮らしていこうと考えていた土屋氏。そんな折、父親の病気が発覚して急遽日本に帰国することに。なにか手に職をつけたほうがいいと漠然と考えていた時に、「お金はなくとも、ものづくりを習えるところがある」と、台東分校(東京都立城東職業能率開発センター台東分校)を紹介された。入ってみると、靴づくり、しかも手作業で靴をつくることががぜん面白くなった。卒業後は義肢装具づくりに。ただ、思い描いていた靴づくりとは違って早々に行き詰まってしまったという。「そんな折、知人の靴メーカーの社長さんからサンプルをつくってほしいという依頼があって、そこで使っていた尖ったトウの木型で製作しました。デザインとしては面白かったのですが、木型づくりはどうやるのだろうという疑問が湧いたのです」そこで土屋氏は、木型づくりを修得するために「自作工房ヒロ」の齊藤敏廣氏を訪ねた。「ヒロ師匠は、君はお金はなさそうだけど才能はありそうだ、うちを手伝いながらいろいろ修得していけばいいと、引き抜いてくれたんです」かくして自作工房ヒロに勤め師匠の言葉を人に伝えながら、自身も木型づくりを修業することになった。
その後土屋氏は第2の師匠と出会う。それがあの靴職人・関信義氏の弟子だった津久井玲子氏だった。「関さんが神田小川町の大喜靴店に、独立した弟子を紹介すると津久井さんを連れてきたことがありました。それを友人から聞いて、直接津久井さんに会いに行ったのです。何度も門前払いを食らいましたが、しつこく通って、少しずつ手伝わせていただけるようになりました」それまでは自由なスタイルの靴をつくっていた土屋氏だったが、津久井氏のもとで、オーセンティックな紳士靴の魅力に開眼した。「ダンサーだった頃は、紳士靴というと、疲れたサラリーマンの靴ぐらいのイメージしかなかったんです。でも津久井さんの靴づくりにおける細部へのこだわりに触れているうちに、自分でもさまざまな靴を見るようになり、同じストレートチップでも全く違うことがわかって、その美学に惹きつけられました。木型や縫い方に関して、皆さん自分たちのバランスを持っていて、それがかっこよかった」こうして土屋氏は、クラシックなハンドソーンの靴づくりにのめり込んでいった。津久井氏の元で1年半程度靴づくりの修業を行ない、靴職人として本格的に独立。既に始めていた靴教室とともに、靴職人として仕事を請けつつ、自身の靴づくりも追求するようになった。